南方熊楠コレクションが河出文庫から発売されている。中沢新一編で、全部で5巻ある。
南方熊楠は明治から昭和の植物学者であると、一応はそういうことになっているが、特に大学で教えたりはしていない。フリーの学者。
しかし和歌山を後にして世界中を渡り歩き、中国の革命前の孫文と友達になったり、大英博物館に勤めたりしていたようだ。その後、和歌山の田辺に帰って、粘菌の研究をしたり、政府の神社合祀令への反対運動を行い、それをやめさせたりしている。
とりあえず「森の思想」と「南方マンダラ」の2冊を買った。
「森の思想」は南方熊楠の粘菌研究について、またそこから発生したであろう考えを中心に文化人類学者の中沢新一氏の論文と南方熊楠の手紙で構成されている。
植物学の分類に対する考え方が、一般の学者と熊楠の間では大きな違いがあることがわかる。
植物をその特徴により分類していくという当時の植物学では分類しきれない、菌類などの隠花植物がある。
熊楠が研究していた粘菌はその中でも特殊な特徴を持っている。キノコなどのように、茎のような棒の上に胞子を入れた袋状のものができる。その中の胞子が飛び去って、別の場所に落ちると、そこで胞子は小さなアメーバ状のものとなる。それが、複数集まって、動物のように動き、食べるようになる。またしばらくすると、胞子を入れた袋をもったキノコ風のものができる。
この動物的な動きをするところに、熊楠は注目していたようだ。皆が、生えてきた(活動している)と思っているときには実は「死」の状態にあり、べっとりして死んだみたいと思われてる状態のときには実は活発に活動している「生」の状態にあるという、不思議な生物(動物)である粘菌。動物の「生」と「死」が観察できる生き物。ここに生命の秘密を見た熊楠は、民俗学や宗教など他分野を巻き込んで、持論を展開する。
「南方マンダラ」では、宗教の観点から、当時、高野山の僧侶であった土宜法竜氏に宛てた手紙を中心に、熊楠の思想が書かれてある。
真言宗の考えを元にそれに批判を加え、また科学の偉さと幼さを考え、ときどきエロ話を挿入しつつ展開される「南方マンダラ」の話は本当に面白い世界観を語っている。
現代に生きる私達は、科学によって数値化されないものはない、と思い込んでる人が多いが、そんなことはない。広大で複雑極まりない世界を表現することは、科学だけでは全然頼りない。「物」と「心」が交わると「事」が起こる。科学は「物」を記述しているにすぎない。世界には「事」が起こり、それが「物」「心」にフィードバックされていくという。
また、仏教でいう「因」と「果」。原因があって結果が起きる。しかし、それらが交わるところを「縁」といい、これも不思議に満ちている。
世界は複雑な関係の中で常に変化を伴いながら動いている。明日のことなど誰もわからない。しかし毎日楽しく過ごしていくことも不可能ではない。いや、面白いことに満ち満ちている。
今年の読書感想文はこれでどうでしょうか?
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