2017年4月7日金曜日

夕暮れ

前回、「生活の柄」について書いたけど、もう一つ、高田渡の曲で好きな曲がある。
「夕暮れ」という曲。これは詩人の黒田三郎が書いた詩を歌えるように少し変えたもの。
まず黒田三郎の書いた詩を見てみよう。

夕暮れ

夕暮れの街で 
僕は見る 
自分の場所からはみ出てしまった 
多くのひとびとを 

夕暮れのビヤホールで 
彼はひとり 
一杯のジョッキをまえに 
斜めに座る 

彼の目が 
この世の誰とも交わらない 
彼は自分の場所をえらぶ 
そうやってたかだか三十分か一時間 

夕暮れのパチンコ屋で 
彼はひとり 
流行歌と騒音の中で 
半身になって立つ 

彼の目が 
鉄のタマだけ見ておればよい 
ひとつの場所を彼はえらぶ 
そうやてったかだか三十分か一時間 

人生の夕暮れが 
その日の夕暮れと 
かさなる 
ほんのひととき 

自分の場所からはみ出てしまった 
ひとびとが 
そこでようやく 

彼の場所を見つけ出す 



なかなかいい感じですね。
これが高田渡の歌では、ちょっと変えられてこうなっています。



夕暮れの街で 
僕は見る 
自分の場所からはみ出てしまった 
多くのひとびとを 

夕暮れのビヤホールで 
ひとり 一杯の
ジョッキをまえに 
斜めに座る 

その目が 
この世の誰とも交わらないところを
えらぶ  そうやってたかだか
三十分か一時間 

雪の降りしきる夕暮れの
ひとり パチンコ屋で 
流行歌の中で 
遠い昔の中で

その目は厚板ガラスの向こうの
銀の月を追いかける
そうやてったかだか三十分か一時間 

たそがれがが その日の夕暮れと 
折り重なるほんのひととき
そうやてったかだか三十分か一時間 

夕暮れの街で 
僕は見る 
自分の場所からはみ出てしまった 
多くのひとびとを 


黒田三郎の原作の方を見てみると、「自分の場所からはみ出てしまった」人は自分が観察している対象の人だということがわかる。2番目から「僕」ではなく「彼」になっているからだ。自分がどこかから見ている「彼」は、自分とどこか似ている寂しさを持った人であって、その人たちへの共感を詠ったものだと思う。

でも、高田渡の方を見てみると、一人称の「僕」が出てくるのは最初と最後だけで、間に歌われる人は他人ではなくて自分みたいだ。(この曲を原作を知らずに聴くと絶対自分のことだと思ってしまうだろう。)自分が、ビヤホールでジョッキの前に斜めに座り、パチンコ屋では厚板ガラスの向こうの銀の月を追いかけるのだ、と思わせる。
自分の持っている寂しさや虚しさをつぶやいているような感じ。

これにメロディをつけたらとんでもなくいい曲になったのだ、と僕は思う。
黒田三郎の視点をちょっと自分よりに変えるだけで、この詩の内容が自分の感情と重ね合わされるというか、切なく、でも淡々としたメロディと歌声で、これは高田渡の曲の中で一番いいんじゃないかな、と思う。

僕はこのことを誰にも言ってなかったのだけれども、一人だけ、「高田渡は『夕暮れ』がいい」といった人を知っている。普段はあまり会わないけれど、一番の友人の一人だと思っている。

2 件のコメント:

  1. もしや…インストで明日聴けるとか・・・?

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  2. SAKAさん、書き込みありがとうございます。
    残念ながら、この曲はやりません。明日のお楽しみです!

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