2016年7月23日土曜日

文化のフェティシズム

バナナ部単独ライブ、企画してからいろいろ考える。オリジナルはない。全部の曲がカバーまたはコピー。それをやることに意味はあるのか?でもオリジナルってなかなかできないしなー。

話は変わりますが、「文化のフェティシズム」(丸山圭三郎著)という本を読みました。丸山圭三郎、って聞いて「うわ!」って思う人は少ないと思いますが、日本がバブル景気に沸いている時に、言語学者ソシュールの考え方を元に、独自の文化批判をした稀有な人です。この人の本を飲み屋で知り合ったMさんから教えてもらいました。今まで中沢新一やドゥルーズ=ガタリなどの本は読んでいたのですが、「そんなん、わからへんやろ?」と言われて、教えてもらったのが丸山圭三郎でした。

この本(文化のフェティシズム)、後半はわかりにくいのですが、◯◯フェチってよくいいますよね。その発生の仕方を書いてあるんです。文化っていうのはなにかとなにかの違いを認識する(発明する)ところから始まるってことを言ってます。ギターを買うのに、「フェンダーよりギブソンやな」とか、「いやいやギブソンより、アイバニーズやで」みたいに思うことの発生の現場を押さえているのです。こういう話は自分の経験に合わせてなんとなくわかりますね。みんながブランドもんを買うのも同じ考えから生じているのです。

「私たちに与えられる喜びと興奮と生の充実感は、硬直した秩序からの脱却と、安定した<見分け構造>から<言分け構造>の発生の場への移行、とりもなおさず制度の機能(ノモス)と生の機能(本能残機)の両方からのはみ出しという<半機能的行為>を行う時、すなわち非在の現前としての<コードなき差異>と戯れる時に生ずるのではなかったか。」(文化のフェティシズム 251ページ)

この文章にグッときましたね。
僕のやっている音楽は他人が作ったものをほぼそのままやっています。でも、楽器編成は限りがある(ギターとアンデスとカズーしかない)。音楽的面白さをそのままにしようと思う時にいろいろな変更を行うのです。その変更は、僕がカバーしようとしている音楽を自分の中で消化しつつ、こんな感じやなと思ってでてくる音形や、複数の楽器を同時に鳴らすことだったりします。
こんな音楽がやりたいという欲求が、全然違うものに再構成されるときに、今までよく知られていた構造や編成やを踏まえつつ、別のつながりを提案しているようになっているのです。というかなっていたらいいなー、と思うのです。

これはうまくいけば喝采をもらえると思うのですが、うまくいかないときは「コピーしようとして失敗している」とか「音楽を全然わかっていない」「たんに真似しただけ」とかいうキビシイお言葉が待っているのです。
ほんとーに、うまくいくといいなー。

でも、うまくいかなくても、僕らの楽曲にたいする尊敬はそのままです。また時をかえてやるだけですね。

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