2016年12月1日木曜日

マンロウとブリュッヘン

うーん。12月ですねえ。1年はほんとに早いもんです。
この前から書いてるマンロウの続きです。

デイヴィッド・マンロウはリコーダー奏者、という知識が最初にあった。だけどCDを買っていくと、ほとんどリコーダーは出てこない。歌かリコーダー以外の吹奏楽器の録音が多い。リコーダーはそのうちの一つの楽器として出てくるのみ。
一方、同時代のフランス・ブリュッヘンは18世紀オーケストラの指揮をする前はリコーダーとトラヴェルソ(昔のフルート)の奏者だった。

リコーダー奏者としてはブリュッヘンが好き。マンロウはというと、実はリコーダーのディスクを持っていなかった。買ってきたのを最近聴いている。聴いてみるとブリュッヘンもマンロウもどっちも良い。
(デイヴィッド・マンロウ 愛の笛)


でもリコーダー奏者としたらブリュッヘンの方が好きかな、と思う。何故か。ブリュッヘンは若い時はピッチを正確にきちんと吹いていた印象だったけど、途中から吹き方が全然変わってしまう。それはオリジナル楽器(その楽器が使われていた当時に作られた楽器。いわゆる本物。)を手に入れた時からだという。僕は、その変わった後の演奏が好きなのだが、それはその頃のどの録音を聴いても「寂しい」印象をあたえる。自分の芸術が高まっているのに、周りはそれをわからないもどかしさというか、売れてるのに実は誰にもわかってもらえていない寂しさというのか、とにかく孤独な感じがする。当時の音楽にあったかどうかはわからないけど、奏者として、芸術家としての「寂しさ」を感じてしまう。これがブリュッヘンの魅力だと思う。バロック音楽を理論的に突き詰めながらも自分が出てしまう、という。
ブリュッヘンは晩年、リコーダーをやめてしまい、オーケストラ作品の指揮に専念する。この辺のモーツァルトの録音は好きだけど、他は「うーん?」な感じ。でもこれは個人的な意見で、ベートーベンの録音も評価は高い。
しかし、90年代にリコーダーを復活。録音したものが素晴らしい。グロッサレーベルから出た「The Passion of reason」はマショーの時代からバッハまで400年ほどを俯瞰した内容。常に漂う厭世観。
(フランス・ブリュッヘン The Passion of reason)

一方、マンロウはリコーダーの録音もやっぱりいい。「ちょっとマンロウの笛はイマイチかなー」なんて言ってた昔が恥ずかしい。音楽として素晴らしいし「喜び」を感じる。

僕は(というか一般的な見方だと思うが)マンロウはリコーダー奏者ではなくて、中世・ルネサンス音楽のスペシャリストという見方をしていた。これは、当時の演奏習慣を調査・勉強し、それを現代でも聴けるようにいろいろと工夫を凝らしている。それも歴史的に忠実と思われる方法で。バロック期のリコーダーの演奏も達者でいいものやけど、ノートルダム学派(ゴシック期の音楽)とか、デュファイ、バンショワの音楽などの録音が最高。
(デイヴィッド・マンロウ ミサ「私の顔が青ざめているのは」/デュファイ)


若い人が、この頃のマンロウの音楽にしびれて、デュファイの「私の顔が青ざめているのは」によるミサ曲を録音している。それを数年前に買って、長らく愛聴盤だったが、マンロウの同じミサ曲の録音を前にすると、それも廃れて聴こえる。マンロウの録音は70年代、40年ほど昔だが、それが今でも色あせていない。

0 件のコメント:

コメントを投稿