リチャード・バックの「カモメのジョナサン」の完成版が発売されてるの知ってました?
五木寛之訳で新潮社から出ていたあれ。あれの続きがあったのだ。
「カモメのジョナサン」という本が出ている事を知ったのは、高校の時。同級生で絵のものすごく上手いKSGW君が読んでいた。僕はその頃、本を全くといっていいほど読んでなかったので、半分知らんフリしてた。でも大学受験に失敗したころから本を読むようになり、大学、就職と順調(?)にいってたときに、なぜか、あのとき「カモメのジョナサン」をKSGW君が読んでたなー、と思い返し読んだ。そのとき、あいつは高校でこの境地に達してたのかと地団駄踏んだことを憶えている。
僕はその頃、クラシックギターを弾いていて、技術面と精神面で無理があり、自分の音楽性は、はたしてどうなんやろか?と悩んでいた。そのときにこれを読むと、「よっしゃ、がんばろう!」と思う人と「あー、僕はあかんわー」って思う人とにわかれるような気がする。僕はその時は「がんばろー」の方やったんかな。今思うと。
しかし、読み返してみるとちょっと違っていた。ジョナサンは初めは「飛ぶ」ことを「食う」ことの上位に置く、変わり者のカモメとみられていて、カモメ社会から追放をくらう。しかし、「飛ぶ」ことで天国を知るのか、それを皆に教えるのか、どちらかを選ばなければならなくなり、教える方を選ぶ。そして自分の弟子が増えていき、自分の考えをわかるカモメに後を託して自分は消え、それで物語が終わる。
しかし、その後の稿(第4章)があったのだ。これは宗教やイデオロギーの行き着く先が書かれている。ジョナサンが神格化されるのだ。でも、それとは関係なく自分で、自分のやり方で「飛ぶ」ことを見つけてゆくカモメが現れる。
感動的な物語であるが、少々単純すぎる気がしないでもない。訳者の五木寛之さんは1,974年版のあとがきで違和感があることを書いている。本の中で、ジョナサンは普通のカモメと変わりはない、という事を強調しているが、そんなやつはなかなかいない。
この前、朗読の音楽をやったのだが、それが魔人ハンターミツルギ氏作の童話「ペンギンは空をめざす」。これはまだ完結していないが、もともと空を飛べないはずの天王寺動物園にいるペンギンのテンがサギのハルカにそそのかされてというか、自由の素晴らしさを自慢されて檻を出て飛びにいく、という物語。絶対にできないはずのことをやろうとするテン。果たしてどうなっていくのか?
でも構造としては「カモメのジョナサン」に似ていなくもない。親から心配されているあたりは同じ。でもテンはペンギンの檻の中で一番高い白い岩山に登るのが好きであるが努力はしないタイプである。ここら辺が共感できるところかな。
天才はそれはそれで大変で貴重なものだけど、凡人は時間をかけてゆっくりと面白いことを見つけていく。ハプニングにも真っ向から対処せず、斜めに曲がってちょっと笑うみたいな、わからないなりの余裕すらあるのである。
僕は凡人でよかったな。
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