2015年3月18日水曜日

言語学の公準

音楽に関するとても美しい文章を、電車を待つ待合室で、電車の中で、アルコールの程よい安定感、いや覚醒感に支えられつつ読んだ。
「千のプラトー」の中の章「言語学の公準」での一コマだ。

”短「調」は、そのインターバルの性格や、和音の最小限の安定性によって、調性音楽に、とらえ難い、逃走的な、非中心化された特質を与える。だから短調は、みずからを長調のモデルあるいは基準に適合させる操作に従属するという両義性をもってはいるが、調性に還元できないある種の旋法の力を優先させるのだ。あたかも音楽が旅にでかけ、あらゆる復活、アジアの幽霊、想像上の地方、あらゆる場所の伝統を集めてくるかのようだ。”

調から受ける感じ、調の持つ力を前提にして、それから逃れていく「短調」を語った文章である。20代のとき「短調」には、散々苦労させられた。ここに書いてある通り「短調」は調性を逃れていく方法である。長調の曲はバロックから近代までわかりやすいしそれゆえに弾きやすい。しかし「短調」はそれ自身が短調であることの他に、長調から逃れていると同時に調性から逃れている曲が多い。19世紀、20世紀になると、楽譜上はどの調を使っているか明らかにしているが、音にしてみるとそうではない。そういうところを非常に好きであり、好んで演奏した。

また、別の部分では、以下の様に書いてある。

”十九世紀、二十世紀にわたる広大な時代に、調体系自体に作用し、平均律を解体し、相対的な調性は保存しながらも、半音階を拡大した熱狂は、新しい旋法を発明し、長調と短調を新しい結合に導きつつ、ある種の変数に対して、ことあるごとに連続変化の領域を獲得している。この熱狂は、前面にきて、それ自体聴かれうるものになり、こんなふうに鍛えられた分子的素材によって、音に属さずにたえず音楽を揺さぶる宇宙の力までも聴かせるのだ。純粋状態の一瞬の<時間>、絶対<強度>の一粒・・・・・・調性、旋法、非調性なはもはやたいした意味をもたない。宇宙としての芸術となり、無限の変化の潜在的な線をしるす音楽があるだけだ。”

調性だけではなく平均律をも解体し、モード(旋法)に向かって行く音楽。短調の時は調性を解体してゆくだけであったが、ここでは調性以外に音律まで解体して、新たな音律を打ち立てるのである。今まで皆が当たり前のように使っていた音と音との関係を外していく。線形的にではなく動的に。この音が鳴ったと思ったら、それに合う音を次に用意するが、それは今までしてきたようではなく、もっと違うように。和声でも、みんなが知っている協和から、まだ誰も知らないけれどみんなが分かりうる協和へ。現代音楽の良さはそこにある。
マイルス・デイヴィスが1960年代に録音した音楽は未だに謎とされている。しかし、そこにはある一定の文体、エクリチュール、喋り方があり、わからないことを言われているようでも共感できる。

音楽は音の羅列であるが、決まった並び方があり決まった和声進行があって、それを出来るようになるとすべてが思いのままになるような気がする。そこから、それを複雑化しよう、それをちょっとだけ外していこう、という欲望が生まれる。脱領土化したくなる。しかし、弾けるようになったと同時に、再領土化が起こり、次に同じやり方でやると、もう白けてしまう。常に脱領土化-再領土化を繰り返していなければならない。

と、そんな事を思いつつ、練習しようか、やめとこうか、迷う日々である。次の文章が今後のヒントになるだろうか。

”文学においても、音楽においても、同じことがいえる。個人の優位などはなく、特異な抽象と、集団的な具体があるだけだ。”

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