神曲の煉獄編を読み終わった。地獄を抜け出し、開放感に浸った煉獄編の始まりだったけど、煉獄に入ってみると結構大変。巨大な岩を担がされていたり、うつ伏せになって何年も浄化させられてるとか、火の中をずっと歩いてるとか。でも天国に入るのを許されてる人(魂)やから我慢できるのかな?
途中で詩人の批評をするところがあった(第二十六歌)。アルナウト(アルノー)という詩人はリモージュの詩人よりいいという。そのリモージュの詩人はなんと、12世紀のトルバドゥール、ギロ・ド・ボルネイユだという。そうかこの時代にはまだ有名やったんやな。かるーくディスられているとはいえ、外国で知り合いに会ったような気分です。
煉獄の頂上にたどり着くと、ウェルギリウスに代わってベアトリーチェが案内役として現れる。ウェルギリウスは天国には入れないのだ。かわいそうに。
で、いよいよ天国編です。
冒頭部分に、「今までの地獄、煉獄はわかりやすかったけど、ここからは難しいぞ。わからんやつはここから帰れ!」みたいなことが書いてあって、読むハードルを上げてくる。
今までもそうやったけど、注釈なしには読めない。ダンテの生きていた13世紀、14世紀のイタリアの出来事やローマ時代のこと、あと聖書の内容なんかがいちいち出てくるので、10行ごとに注釈を確認せなあかん、みたいになる。
読みにくいのはそのとおりなんやけど、天国的な雰囲気にあふれている。そこで会う人(魂)は光り輝いていて眩しくて目も眩むほど。楽の音が鳴り響き、歌が聞こえ、天使はダンスを踊っている。
そういう中でダンテの疑問が次々に解かれていく。
「楽器が演奏され」って書くより「楽の音」って書くと天国的に思うけど、仏教徒の僕は極楽浄土とごっちゃになってしまう。たしか源信の往生要集にも極楽浄土は楽の音が響いているって書いてたとこがあった。まあ、西洋の天国も極楽浄土とつながってるんちゃうかな。魚民と和民が入り口は別やけど中でつながってるように。知らんけど。
ちょっと注目してるのは、天国的な感じにするのに、歌と楽器の演奏は「まあ、あるな」って思えるんやけど、ダンス(舞踏)が絶対にそれにくっついている事。ダンスってあんまり注目したことなかったんやけど、去年からその重要性に気づかされてる。16世紀のネグリ、カローゾの本はリュートの曲集のようなイメージしか持ってなかったけど、これは舞踏の事を詳細に記述した本なのだ、ということに今更のように気づく。優秀なダンスの研究家と知り合ってからだ。結構年齢を経てから、演劇やダンスのスペシャリストと知り合ったら音楽がとてつもなく面白くなってきた。底なし沼にはまっていきながらも、幸せな感じになってる。早死にしなくてよかったな。
まあ、もうちょっと、頑張って読んでみよう。
そうそう、煉獄編の話に戻るけど、トルバドゥールのギロ・ド・ボルネイユ、アルナウト(アルノー)・ダニエルを録音したCD、持ってました。
「ダンテとトルバドゥール」セクエンツァ
1995年やから古楽を聴き始めたぐらいに買ってる。当時は中世ものもよく買ってたな。なーんにもわからずに買ったけど、結構お気に入りです。ギロ・ド・ボルネイユとアルノー・ダニエルと聴き比べができますよ。
そうか、トルバドゥールとダンテとのつながりがやっとわかった。
やっぱり早死にしなくてよかったわー。
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